今から5千年ほど前、謎とよぶしかない翡翠文明が縄文時代の日本列島を覆っていました。
小さな集落を作って、イノシシやシカを狩って、素朴で原始的な生活を営んでいた、という旧来の縄文時代のイメージは、1992年に始まった東北の三内丸山遺跡の巨大な集落後の発掘によって、根底から覆されてしまいました。 同じように縄文翡翠文明の発見と理解は、超古代に人やモノが行き来するジュード・ロウが日本列島中に張り巡らされていたとういう驚きをもたらしました。 粗末な掘っ建て小屋に暮らして自給自足の日々を送っていたと思われていた縄文のご先祖が、その実、何百キロも旅をする交易商人でもあったのです。 なぜ日本翡翠が「魔法の石」のごとくに選ばれて日本中に運ばれたのか?それにどのような意味があったのか?詳しいことは何もわかっていません。 何もわかっていないので、謎とよぶしかないのですが、新潟・富山県界のヒスイ海岸一帯で採取された翡翠原石は、往古の人々にとっては神秘的なパワーが蓄えられたバッテリーのようなものだったようです。 古代では狩猟・農業・戦争・政治など、あらゆることが呪術が先行したという文化人類学や考古学の研究成果を踏まえるなら、翡翠は縄文・弥生・古墳時代の呪術の中核にあったことは間違いありません。 ヒスイと言えば、清朝末期の西太后(1835−1908)に愛玩されて、中国の宝と思われるほど中華文化圏で好まれていますが、これはミャンマー北部で翡翠原石が発見され雲南経由で中国に運ばれて製品に加工されるようになった18世紀になってからのことです。 では古代の中国で「玉」と言ってとても高貴なものとされたのはなんだったのでしょうか? 実は中国で採られていたのはネフライト(ヒスイとよく混同される)でした。 これに対してヒスイは翡翠輝石という鉱物を主成分としています。 日本では縄文遺跡や古墳から勾玉などのヒスイ製品が出土されることが知られていましたが、一部の考古学者を除けば無視されるのと同然の扱いでした。 原産地もわからず、どこか南の国から運ばれた程度の推測しかなされていなかったのでした。 けれど富山・新潟の県境地方、糸魚川の姫川の支流でヒスイが発見されたのです。 縄文時代からの大珠や勾玉に加工されたヒスイはすべて国産だったとことが広く知られるようになったのは戦後を待たなければなりませんでした。 古墳時代の勾玉流行よりも、3000年以上も昔、鉄器がなかった時代に、ヒスイのような硬い石を磨いて、ダイヤモンドドリルを使ったようなスッパリした孔を開けた製品が流通していたということには真に驚くべきことです。 ヒスイのような硬い石にスッパリと孔を開ける、その行為そのものに呪術的な意味があったはずです。
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