顕彰碑 長先生のご先祖『長卯平』さんについて長 卯平 江戸時代文化12年(1815年)〜文政4年(1821年)大導水事業をやり遂げる この当時、度重なる飢饉にバタバタと村人たちが死んでいき、餓死した人は福岡だけでも10万人と言われました。 戸原村(今の福岡県)の大庄屋の長卯平は苦しむ民衆を助けようと、若杉山から新大間池への大導水事業を計画し民衆の危機に立ち向かいます。 そうすることでこの辺りの田畑の水をまかなおうとしました。 長卯平は全ての私財を費やし、周りの民衆や水利権をもつ人々に頭を下げて説得して回りました。 その当時では考えられないほどの大掛かりな難工事でしたが「2万人の命と多くの子孫を永久に救える」との切なる想いが、周りの人々を動かして行きました。 しかし難工事に次ぐ難工事のうえに固い岩盤が邪魔してなかなか進まず、とうとう資金も底をついてしまいます。 それまで賛同していた人々も一人二人とあきらめて離れていきます。 卯平は福岡の藩主や他の有力者を説得して歩き回りますが、誰も馬鹿にして耳を貸そうとしませんでした。 しかし、熱く民衆のために全てを投げ打つ長卯平に、感動した立石又左衛門久明が、とうとう莫大な資金を出してくれました。 そして卯平たちの汗と涙の結晶は7年もの歳月をかけ、完成しました。全長3600メートルにも及ぶ仕掛け水路は、数々の溜め池を満たしながら進み、現在に至るまでこの地域の民に命の水を潤し続けています。 ↓↓↓↓↓↓ http://www.hakata8museum.com/VIP_room...i_shi.html (表糟屋郡大庄屋 長卯平と博多商人 立石又左衛門久明のビデオが下の方にありますから、是非観てくださいな。) 面白いことに、水路の完成は卯平さん66歳の時、そして3600メートルと言うのも3+6=9と言うことで369(ミロク)の数字と重なってきます。 不思議ですね・・・ 更に調べましたところ、卯平さんのお名前の通り卯年生まれ・・・ 我らが長先生も卯年生まれ・・・ 人々のために活動している想いはきっと同じ・・・ 何か特別な縁が感じられますね!
0 Comments
Leave a Reply. |
長社長の
|